闇の中を、俺は“堕ちて”いた。
なぜ。
術が安定しなかったからだ。
なぜ。
いつも通りに行使した筈なのに。
闇は視界いっぱいに、それこそ、いつも通りに空白だった。
ここには上も下も無い。体の実感も沸かない。それでも“堕ちて”いる。“きっと、頭は下にある。”
その内に、ふと孤独を感じた。道連れもなく、ただ“堕ちる”のみだろうか、と。
そう考えた時、どこかに気配を感じたような気がした。
いや、気配ではなく――これは、“手首を掴まれて”いるような感覚だ。
ここには誰も居ないはず。そもそも、俺の体の実体も、闇に包まれてろくに見えやしないだろうに、どうやって。
「想像構築をしろ」
呆然としている俺を掴んだ手から、ぴりぴりと音の震えが伝う。同時に、この空白に言葉が波紋となって響く。
「世界の“全て”は想像構築が創り出す。自らの足元に“地”があり、裡に“光”は輝き、お前を飲み込む“闇”はないと」
言うや、“宙に放り投げられる”感触がした。受身を取らねば。そう思って、体は考える前に動き出した。“そこに地面はある”と当然のように考えて。
「飲み込みが早いな。いや、それとも常識に従った、か?」
後ろから、今度は空間の震えを持って、言葉が響いてきた。
空虚を照らすは
振り返ると、そこには何か、人型の存在が居た。
金に煌めく髪と瞳、そして暗色の肌。一見目立ちそうな風貌だが、“それ”は違和感無く、闇に存在していた。
馴染みのある、気配。雪奈を浸食するものたちの、冥い気配。
再び、“それ”が言葉を波紋の様に響かせる。
「“この世界”は特に想像構築に左右される。大方“堕ちる”事を考えていたのだろう?」
一瞬で体が反応し、抜刀の型に構える。
その反応を胡乱げな眼差しで見た“それ”は、溜息混じりにぽつり。
「日の元で暮らすたかだか普通の人間如きが、突発的に手を出して無事で済む様なものではないのだがな、“闇”は」
呆れた様な響きの言葉。それは不本意ながら真実の一端だった。
的確に事情が把握されている事に対する警戒心と馬鹿にした様な言動への怒りが、右手を剣の柄へと向かわせる。
こいつは、“敵”だ。
剣を鞘から走らせ、剥き出しの敵意を剣に乗せ、まっすぐに首を狙う。
それだけ動きも、殺気も判りやすかったのに“それ”は動かず、こちらに敵意無くシニカルな笑みを向けるだけ。剣は完全に“それ”の直前で止まっていた。
術が発動している訳でもないのに剣の勢いが殺された事実、そして、目の前で対峙している存在は今迄で最も手強いらしい事実に驚愕する。
――落ち着かなければ。焦れば、そう、生半可な姿勢では『やられる』。
理解が追いつかない俺の頭でも、それだけははっきりと理解していた。
そんな俺を見遣り、再び溜息混じりに――今度は明確に俺に向けて、言葉という雫を落とす。
「迷いは技を曇らす」
「!」
小さな、けれどはっきりとした言葉が波紋の様に響く。同時に、俺の心にも――。
「迷いがあるな。後悔と言い換えてもいいのだが」
波立つ心は、同時に沸点も低かった。
「迷い、後悔……そんなもの、とうに捨てたッ!」
最早条件反射だ。脳裏には『彼女』との間に最後にあった事に溢れ、再び吼える。しかし。
「ならば何故、そこまで動揺する必要がある」
「っ!」
“それ”は至極冷静に言い返す。綺麗に磨かれた水面。俺の言葉では、まるで波立たない。
言っている事は解る。たぶん、自分でも解っていた。術の制御が出来なかった原因は、迷いによる心の揺らぎ。
だが、“闇”に――よりにもよって“闇”にだ!――見抜かれた悔しさに、言葉が続かない。
“それ”は呆れた様子で俺を見遣り、尚も言葉を続ける。
「その様子だと、自らの周りも解っていないだろう」
言うや“それ”は上を指さした。
動きに釣られ、俺は顔を上げた。――眩しい。
いつから降り注いでいたのか、そこにはやわらかくも鮮烈な“光”があった。
「“独り”だと粋がるなよ、若造」
見惚れている俺の耳に“それ”の言葉が穏やかに響く。
顔に填められた金は全てを見透かし、その上で告げる。
「ぬしにとっての“光”を想像構築しろ――往くべきものの元へと往く道を、創るはずだ」
自分でも不思議だが、“それ”の言葉が俺の胸に、すとん、と落ちた。
どうしてか、とてもその言葉は無視できるものではなかった。
しかし、なぜ“闇”たる“それ”が――?
奇妙な沈黙が落ちる。“それ”も俺も、身動きひとつしなかった。
俺はただ“それ”の金に煌めく瞳を見つめ、“それ”はそんな俺を静かに見つめ返すだけだった。
だが、長くは続かず、均衡が破られた。
三度、溜息混じりにぽつり。
「せっかく理解して貰った所だが、残念ながらここでぬしにひとつ、処置をせねばならん」
やった事が無駄になるようで嫌なんだがな、と微苦笑で不穏当な事を嘯きながら、“それ”の力が高まるのを感じる。
その時、俺は悪寒を覚えた。俺は、この力の傾向を、知っている。
「まさか、貴様!」
「やけに思い当たるのが早いな?“あのこ”に同じ事をしたのか」
また、だ。
「どうして、知って……っ!」
「なるほど、当たりか」
「貴様、カマをっ」
つい口走った迂闊な自分に舌打ちつつ、しかし悪寒が抜けない。それは正しく、次に放たれた発言のせいだった。
「いい機会だろう。彼女が感じたことを、追体験しとけ」
当たって欲しくなかった。
そう思った次の瞬間、薄情にも俺の視界は塞がれる。
状況に対して、更なる焦りが生まれた。
「答えろ!」
気が付いたら、叫んでいた。
「“闇”の存在であるハズの貴様はさっきから“光”を肯定している……貴様にとって、“光”とはなんなんだ!」
塞がれた視界の向こうに、ゆらり、と揺らいだような、そんな気配を感じた。
一連の状況の中、余裕で構成されていた“それ”の初めての動揺らしきもの。
内心に『してやったり』と思いつつ、答えを待つ。
逸る気持ちを抑える事に集中していると、おもむろに“それ”は深く息を吸った。
「“光”が無くては“闇”は存在出来ないだろう」
それは、今までで一番静かで真剣な語り口調だった。
「“光”を好ましく思う理由があっても、“光”を疎ましく思う理由など、僕には無い」
「なぜ――」
追求する俺に、“それ”は容赦なかった。先程の動揺はもう見られない。
「お喋りはここまでだ。我はここの頭に、ここの世界に干渉してはいけない、と釘を刺されているんでな」
立派に干渉してるじゃねぇか、というツッコミは、結局空間を響かせる事は叶わなかった。
嘯いた言葉から間髪入れずに“それ”の力が放たれる、その瞬間。
「ごきげんよう」
追い討ちとばかりに、無情な声は囁かれて――。
ぱちり。
いつの間に目を閉じたのやら、青年は唐突に目を見開いた。
見渡す限りの空白。所々見かける、大きな『うねり』。先程まで居た暗黒と、全く相違ない。
「本当に……?」
――そもそも、俺はなぜここにいる?
青年は、心に“しこり”がある事に戸惑っていた。しかし、それが一体何が原因なのかが本当にわからない。戸惑いは拍車がかかる。
それを抑えるかのように、青年は目を固く瞑り、そして深く息を吐く。力強く顔を上げた頃には、既に青年の顔には迷いは見えなかった。
開いた瞳の前に広がるのは先刻と変わらず、ただ空白が広がるばかり。
ただ、彼の心には先程までと違い、“光”が宿っていた。
「俺の中の“光”を想像構築しろ」
想像構築。言葉は波紋となって冥い空白に響き渡る。“青年にとっては”いつ教えてもらったのかも定かではない。
教わったのは誰なのか、しかし先を急ぐ青年にとって、それはさして重要な事ではなかった。
重要なのは、ただ一点。
「そして、“それに至る道を創る”」
はたして、彼の目には何が見えたのか。青年は迷いなく歩き始め、やがてその後姿は見えなくなった。
それを遠くから眺める影、ひとつ。
青年の様子を見て満足そうに笑ってから、いずこかに気配を消した。
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