とある秋の朝。
土日でも祝日でもなく、特にイベントもない普通の平日。
例によって王華高等学校も朝っぱらから門が開かれており、今はほんのり早く来た生徒が、ホームルーム直前のこの時間、思い思いに朝のコミュニケーションを交わしている。
そんな平和な風景は、一学年のとある教室の自席で黙々と読書をしている佐伯雁也と、わざわざそこに来て、お喋りに花を咲かせている時乃シロと狼縁の周囲にもたらされた、他学年からの闖入者によってぱっきり凍ってしまった。
「Trick or Treat!」
教室のドアに仁王立ちし、自前の長い金髪を盛大に靡かせながら、王者然とした態度で宣言を行う、それ。
「……」
雁也はそれに対し、呆れ顔でひとつ溜息を吐くと、やたら流暢だな、と、呆然とした雰囲気に包まれた教室の中にあっては場違いな独り言を吐いた。
お菓子くれ!
さて、誰も彼もが言葉を失う中、当の闖入者である佐伯セシリアはというと、周囲の当惑をまるごと一切無視して素早く、そして手癖悪く胸元へと動いていた。
「無いならいたずらを――」
「するな。そもそも今日はハロウィンじゃない」
それよりも尚早く雁也は席を立ち、セシリアと距離を取って回避、公開処刑を免れる。一瞬の攻防。いつもは遠くで見ている――そして現在絶賛置いてけぼり中のシロ、エン両氏は、やりとりの勢いに目を丸くするばかりである。
「ケチねー。減るもんでもないでしょーに」
「阿呆、僕の心が磨り減る」
「もー。じゃあ、今何か持ってる訳?」
沈思黙考。
セシリアの言葉を受けて、すみやかに雁也は打算を巡らせ、その末にひとつの提案を口に出した。
「……エンジェルホームのケーキひとつでどうだ」
「二個」
「高い!」
雁也はセシリアの妥協案に、常に無い反応速度で返した。
「何言ってんのよ!大体、王華の制服で入れば割引されるじゃない!」
要するに雁也は、高校生のささやかなお小遣い(月額2000円程度)を舐めるなと主張し、対するセシリアは、そもそも大した額じゃないでしょう、という意味も含ませて反論したのだ。
月々万単位で所持金が増えるセシリアにとっては高々1000円強(割引済み)の出費など痛くも痒くもないだろうが、いわゆる一般庶民育ちの雁也にとってはなるほど大打撃に違いない。金持ちとの価値観のズレっぷりに、雁也はほんの少し泣きたい心地になった様だが、それは閑話休題である。
ちなみに、その横ではセシリアと同じく富裕層に属するシロが雁也の反応に驚愕し、エンは深く頷いていたが、それも閑話休題。
「それから、太るぞ」
「うぐっ」
値段で同意は得られないと見るや、攻める方向を変える。即ち、殆どの乙女必携の悩みを突いたのだ。あざとい事に。
予想通りの反応に、雁也は我が意を得たりと小さく、皮肉気に笑い、事態を纏める方向にとどめをさす。
「じゃあひとつな」
――が、セシリアもまた、するり、と口元に弧を描いていた。
「……一個半」
「はぁ?」
雁也は動揺を、顔と言葉に出した。それもまた、常に無い大きな感情の動き。
同時にこれが、その後の流れを決めた。
「一個と半分は私が食べるから、残り半分はあんたが食べなさいよね」
「おい」
「じゃあ、そういうことで〜」
「ふざけんな金持ち!」
「雁也とデート♪ デート♪」
勝敗は決した。
かくして、勢いに乗ったセシリアに雁也が押し切られる形となって、商談は成立した。
揚々と去っていくセシリアの後ろ姿を、甘草飴を一気に口に入れたかの様な形相で見送った雁也は、暫くその状態で立ち尽くした後、どかり、と音を立てて席についた。
次の瞬間、固唾を呑んで事態を見守っていた教室内の人間達はざわざわと音を取り戻す。
雁也は苦々しく思いながらその様子を眺めていると、ふ、と至近からの二対の視線を感じた。
更に深く、あからさまに失敗した、という表情で視線の発生源に顔を向けると、そこには興味津々、といった面持ちで見詰めているシロとエンのふたり。
「さりげなくデートに誘うなんて、すごいなぁ雁也」
「あ、そっかなるほど、雁也くん、セシリア先輩をデートに誘ったんだね」
ふたりが口々に言うと、雁也は見る間に目を据わらせる。
非常に不機嫌そうな反応に、ふたりは固まったのだが。
「ちがう」
口を尖らせて否定をした雁也は、それっきり、窓の方を見遣って無言を貫き、シロはその返しにきょとん、と目を丸くさせた。
――自分たちはどうなんだ、とか、来ると思って心の準備したのに。
エンもまた、怪訝そうな顔でその反応を見ていたが、そうこうしている内に朝の予鈴が鳴り、じゃあ、またあとでね、とエンが告げて、慌しくふたりは自分の席へと向かっていった。
「あの女……」
微かな呟きと、同じく微かな笑みを、この慌しげな教室内において、見咎める者はいなかった。
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