ひとつ、誰にも――桐枝やセシリアにすら!――話していないけれど、不思議な体験をしたことがある。
それは、僕が本当にちいさな頃に、今の年齢の僕の容姿と、そっくり同じの人を見た、という事。
鏡で何かの拍子に“今の僕”を見た時は、大層驚いたものだった。あんまりにも“あのときの彼”にそっくりだったものだから。
それは本当に、本当にむかしのことだから、彼はもう、二十歳も超えているだろう。
少し暑くなり始めたある日。
その日は家族でデパートに来ていた。これから来る夏に向けた準備をする為だ。
僕は特におもちゃにも興味が無く、用もなかったので――ガキの時分にしては可愛げの無い事だ――とても暇を持て余していた。相応に落ち着きの無かった僕は、両親と桐枝の近くからちょっとだけ離れて、商品棚を弄ったりしていたのだが。
とん。
余所見をしながらほっつき歩いていたせいか、人に正面衝突をしてしまった。
幸い、勢いはなかったので、転倒どころかその人は揺らぎもしなかったのだが、謝ろうと思って上を向いた時、僕は異常に気が付いた。
あおが印象的なその人は、ちいさな僕を見て驚いていた。
目をめいいっぱい開いて、それからまじまじと、不躾なくらい僕を見て、それから不意に横へと視線をずらした。
彼は息を飲み、さっきは小揺るぎもしなかった体が不自然にぶれた、様な気がした。
そこには、僕の両親と桐枝がいた。
どこにでもありそうな家族風景。仲睦まじく、色々な文房具類を矯めつ眇めつ見ている。
その風景を見て、僕は、まだ時間がかかるのか、とげんなりしたけれど、隣に立つその人の様子を見て、ぎょっとしてしまった。
それはそれは、愕然、としか言いようの無い表情。
あまりにも両親を泣きそうな目で見ているものだから、つい、幼く、純真さが残っていた僕は、
「あの、お兄さん、大丈夫?」
と訊いた。
彼は、釘付けになっていた視線をぎこちなく僕にずらすと、
「大丈夫だ――ああ、大丈夫だよ。悪かった」
と擦れた声で言うと、おもむろに踵を返して、あっという間にそのあおは、様々な色の中へと紛れてしまっていった。
――パラレルワールド。
去り際、彼が囁くように呟いていた言葉。
当時はわからなかったが、恐らく、そういう事なんだろう。平行世界に存在する僕には、両親も桐枝も居ないのかもしれない。
未来から来た自分の可能性も考えた事があるが、それにしては今現在の僕とは雰囲気が大分違っていたので、やはり本人が言っていた様に、パラレルの関係なのだろう。
と、そこまで考えて。
「ちょっと、兄さん、聞いてるのっ」
振動と共に、唐突に思考を割り込まれた。
「さ、テスト一週間前だし、ほら、勉強教えてね、兄さん?」
ぼう、としていた僕を見かねて、桐枝が肩を揺さぶりながら念押ししてくる。
そういえば、教室を出たばかりの所で桐枝に捕まった、様な気がする。
というのも、休み時間に僕の近くでよくおしゃべりをしているやつらが“ドッペルゲンガー”の話題で盛り上がっていたのを何となしに聞いてて、自分の記憶にひっかかりを覚えたからで、そのひっかかりを解消するのに、帰りのHRを過ぎても思考を止めないでいたからだろう。
とりあえず驚嘆すべき生活習慣のお陰で、無意識ながら帰り支度を整え、図書棟に向かう為に教室を出た、と。そしてこの状況。
現状をさっくりと整理した僕は、縋るような面持ちの桐枝を見据えて、どうにも腑に落ちない事実について訊いてみる事にした。
「昨日、数学の教えたばっかだろ。基礎の基礎を。お前、応用は得意なんだから、これ以上僕から教える事はない」
「そうね。数学は範囲の問題集もさくっと終わらせたし、もうばっちりなの。だから今日は物理を教えてちょうだいよ」
「……物理もか?」
脱力して念押し訊けば、桐枝は目をあちらそちらに彷徨わせて首肯。
Oh Jesus! 全く何という事だ!
数学をやっとの思いで教え込み――桐枝は基礎を理解すれば、後は手間が掛からないが、逆に言えば基礎を理解するまでがとんでもなく手間なのだ――家庭教師業から解放されたと思っていた矢先に、この宣告。
「そんな顔しないでよ……」
僕の恨めしさを察して、桐枝がしょげながら述べるが、まだどうにも落ち着きがない。嫌な予感がしつつ、再び質問。
「お前、まだ何か僕に伝える事があるだろ」
「W双子は先に図書棟行ってるって」
つまりそれは何だ、教える人数が増えるという事なのか。
知らない所で進行していた事実に、くらり、と眩暈を覚えたような気がした。
「あぁもう、細かい事は気にしない!じゃ、待たせてるんだし、いこっか!」
僕のこの反応も慣れたものだからか、桐枝は笑顔で先を歩き始める。僕も溜息ひとつでぐろぐろと考えた諸々をうっちゃると、桐枝の後を歩き始めた。
ふと視線を横にずらすと、真っ青8割、真っ白2割の空模様が、窓枠に切り取られている。
その眩さ、コントラスト、奥行き、どれを取っても腹立たしい。
柄にも無く追憶に集中してしまったのも、恐らく大きな足音を立ててやって来る季節の気配にやられたせいだろう。
――あぁ、夏が、近い。
おもひで
果たして、彼も同じ色を見て、同じ思いを抱いているのだろうか?
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