学生の仕事として通う教室から出て暫く、雁也は漸く首根っこから手を放して私に鞄を押し付け、今度はゆるく腕を掴んで一緒に昇降口へ向かっていた。
 普段を考えれば、中々に“おいしい”シチュエーションではあるものの、淡々として動きのない事にいい加減に飽いていたので、目的地も視野に入った辺りで、こっちから動く事にした。
「もう大分離れたわよ。放しなさい」
 ぶん。
 少し強めに振ると、呆気なく手は離れた。当然だ、ゆるゆるな拘束だったのだから。振り払われた方はというと、相変わらずの、表情が読めない、静かな目でこちらを見詰めている。
「さっきの、どういうつもりなの」
「助けてやったんだが」
 強めの口調で問えば、淡々としている癖に、妙に強気な答えが即座に返ってきた。恩着せがましい。
「別に助けて貰わなくても避けれたわよ?」
「ああ、わかっている。勝手に借りを返しただけだ。一部だが」
「借り?何の事」
 どうやら、私は貸しを作っていたらしい。
 心当たりは、無い事もないけれど。やだなぁ、恩を売ってどうこう、なんて考えていないのに。
 そうつらつらと考えた事を、威圧的に見せている態度で包み隠して、次の言葉を待つ。今の私は相当険しい顔付きの筈だ。今までに幾人かの男を比喩じゃなく泣かせた、自白に定評のある態度である。欲しい言葉を貰える自信はあった。
 しかし雁也は――終ぞ口で答えを言う事はなかった。その代り、大層な事をしでかしてくれたのだ。
 言葉もなく雁也の手が私のネクタイを自然な動きで掴み、そこから、流れる様に、一切合財の躊躇もなく、零距離になった。レンジゼロ。それはつまり――。
「これで全額返済だ」
 さっき私に手を振り払われた時と同じテンション、同じ目のまま、そう告げる。そのままの表情で、ぺろり、と自分の唇を舐める仕草が、やけに艶めかしく見えた。
「気を付けて帰れ」
 私が二の句を継げない内に、目的を果たしたのだろう雁也はあっさりと詰めていた距離を元に戻し、それから些かの動揺や羞恥も見せず、これまたあっさりとこちらに背を向けて去って行った。
 ここまでの行動のどこかしらに、情熱を無意識にか見出そうとしたけども、何の欠片も見当たらない。トーンはまるで業務連絡の様で。
 結局、場に残されたのは、何が起こったのかの理解が追い付かなくて、呆けている私だけ。
 それもやがては元来の頭の回転の良さで解消される。多少不意を打たれて鈍った所で、アクシデントの対処に慣れた頭がそうそう弱る事もない。――確かに理性はそうそう弱る事は無いものの、今し方の出来事はどうにも、心が弱るのは避けられなかった。
「ずるい……」
 ずるずるとその場にしゃがみこみ、熟れた果実の様に赤いだろう顔を膝にうずめて隠す。
 少し離れた昇降口の更に向こうから、仲睦まじいカップル――なんだかつい先頃に聞いた覚えのある――の声が微かに聞こえる。
 物理的にも、心情的にも、まるで遠い世界からの言葉であるかの様で、あまり平静でない私の耳では、少しも意味のある会話には思えなかった。
 同時に、雁也が終に明確な解答をまったく寄越さなかった事に、不覚にもまだ気付いていなかった。

望外の戯れ


(気があるのかないのか、ハッキリしてちょうだい!)






Riryさんのこちらのお話を受けて。もう一本、前提がある予定は未定。

語る事もないので一言。酷い奴だな!(お前)
誰か通りがかってもいいのよ


2013/4/15 Cuore

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